異論

「豚肉を含む援助食糧OK」についての記事への異論。いや、異論というと語弊があるか。今回の例外的な措置自体は良いことだと思っていて、その点は同意見。しかし、宗教やイデオロギーの価値が、人命よりも重いとは一概には言えないなと思った。それがこの文章を書く理由。

おそらく、れですもさんは「他者が他者に強制する価値」としての宗教やイデオロギーという意味で書いていると思う。その意味では同意見だが、自分の命よりも宗教やイデオロギーの方が大切だと考えている人もいるわけで、私はそれを無価値だとは思わないし、狂った価値判断だとも思わない。むしろ、そう思える人生を幸せだと思う。

所詮は幻想と同じで人間がいなければ成立しません。

と書かれているが、これはその通りだと思う。思うが、「だからどんな場合にでも誰にとっても、イデオロギーより人間の命の方が優先する」とはならない。それはあくまで当人が何を望むかによるだろう。

人間は誰しも自分の世界を持っていて、それを幻想と呼べば呼べる。しかしその幻想はただの幻想ではなく、幻想に高い価値付けをしている(事実と信じている)人にとっては、それは事実以外の何物でもない。当人が死んでしまえば当人の幻想はこの世からなくなるが、当人の事実を曲げれば当人の棲む世界がなくなる。

そういう形での信仰でなければ単に「良かった」ということになろうが、もしもそういう信仰であったなら、彼らの今後の生は、この例外的措置によって拭えない苦痛に満ちたものになるかも知れない。

今回指導者たちがした決定は人道的だと思うし世界的に高く評価されてしかるべきだとも思うが、この決定を自分に適用するかどうかは信者一人ひとりの選択であるはずだ。指導者の許可が出たことを理由に自分の信仰を曲げることをよしとする者は禁忌の豚を食べるだろうし、どんな状況だろうと自分の信仰を曲げることをよしとしない者は神以外の誰に許可されようとも禁忌の豚を食べるはしないだろう。どちらの選択が良いことなのか悪いことなのか、信仰を持ったことのない私にはわからない。単に、当人がその幻想に対してどこまで入れ込んでいるのかの違いではないかと思う。別の言い方をすれば、信仰を曲げても生き延びることに価値を見出せるか見出せ(さ)ないかだ。

また、私には豚が禁忌になっていることの本当の理由はわからない。しかし、科学的な理由であるよりは、神的あるいは霊的な理由なのだろうと漠然と思う。いや、神が定めたルールに理由などないのかも知れない。だから私には、神が定めたルールを人間が例外的に変更することが、信仰において是なのか非なのかわからないのだ。わかるのは、信仰とは自分で選択した生きる道だろうということだけだ。

私は、武士道には一種の信仰といってもいい側面があると思っている。これはあくまで私の理解でしかないが、武士が武士としてあるまじき行いをしてしまったとき、どう始末をつけるのか。場合にもよるが、許されるなら切腹して果てる道を選ぶだろう。他者に強制される場合もあるだろうし、自ら始末をつける道を選ぶ場合もあるだろう。それは、見方を変えれば世間の目の見えざる圧力であるかも知れない。しかし、それが何であるにせよ、当人が「このままおめおめと生き恥をさらすわけにはいかぬ」と思う場合は少なからずあると思う。もちろん全員が全員ではないだろうが、そう判断した武士はいたと思う。それはへまをしたから死んで詫びるというものではなくて、そういう場合には潔く切腹することこそが武士の生き方だからではないか。武士としての生き様を捨てて生き延びるには、相当の大義名分があれば別だが、そうでなければ生き恥をさらす覚悟は到底持てまい。

もちろん私は武士ではない。しかしできることなら自分の生き方は守りたいと思っている。私の自信の源であり、幸せの源であるからだ。だからもし私が彼の地で被災した信者の一人であったとしたら、今回の選択は迷うだろう。「生存」を取るか、それとも自ら選択した「生きる道」を取るかで。私には生死のかかった極限状態の経験がないから断言はできないが、生存することの方により生きる意味を見出せたらそちらを選ぶだろう。しかし、見出せなければ生存を選ばないかも知れない。

少なくとも私にとっては、生存することがすなわち生きるということではない。生きるための生ではなく、生きる価値のある生を生きてこそだと思っている。私は自分が価値を見出せない生を生きたいとは思わない。自分の生命以上の価値を見出せない生を私はつまらないと思う。身を捨てて守るべきもののない人生を私は不幸だと思う。

「生きていてこそ」というのもひとつのイデオロギーであり、「命をかけてこの信仰を守る」というのもまたひとつのイデオロギーなのだ。「他者が他者に強制する価値」という意味でなく、自分自身の選択した生きる道という意味において。

人はいずれ死にます。
けれどできれば世界の誰もが自分の理解できる死を迎えられるようになればいいなあと思っています。

だからもちろんこの言葉にも同意する。
付け加えて言うなら、「そして世界の誰もが自分の選んだ生き方で幸せに生きられるようになればいいなと思う」。