昨日のコメントから

さあ、混乱してきたぞ(笑)。いや、ホント、ちょっと頭の中がぐるぐるしてます。変だったら許して。

# bmp 『実際には「生きる価値がないと認めること」この状態は無いと同じだと思う、倒錯してしまってるか、死んでるので、、言い訳っていう語感が悪いのかもしれないけど、論理的に「生きることの意味」に唯一解を出すことはできない、なので言い訳と表現しているだけっす。言い訳は希望・夢・愛、何にでも置き換えていい、「生きる事に意味は必要無い」っていうのは、生きることには意味があると思う人を否定しません。ただ「意味がある」を他人に強要する事をしてはいけない。』
# bmp 『特に子供にそれをするのは間違ってると俺は思うんです。何かがあって自分が見出していた意味を失ったとき、それはその人にとって受け入れなければならない死なのか、誰もそういう意味で生きる意味を言ってないと思う。子供には世界には自分を必要とするいろんな可能性があることを示してあげれば、それだけで多分生きる事に迷ったりはしないと思うんすよね。っとそういう感じです。』

最初に読んだときどういう意味かちょっとわからなかったんですが、「言い訳」に対してのコメントと、「生きることに意味は必要ない/ある」に対してのコメントだと受け取りました。それで合ってますか?>bmpさん

「言い訳」に関しては自分なりに言い換えてみただけなんですよ。「ああなるほど、うまい表現だな」と思ったんですが、もうちょっとわかりやすい表現に変えられないかなと思って。

「生きることに意味は必要ない/ある」に関しては、必要無いと言い切ってしまうと、切なく受け取ることもできるかなあと思ったんです。切なく受け取った結果、「必要無い」から「生きる意味なんて無い」に変わっちゃったら嫌だなと思いました。

仰るとおり、「意味がある」ということを強要してしまうと、それはそいつの意見の押しつけになってしまいますし、おかしいです。「意味があるかないか」はあくまで「自分にとっての意味」であって、当人の考え方によるでしょう。

うまく伝わらないかも知れませんが、生きていく上で自分の生を意味付けるのはごく自然なことだと思いますし、必要なんだと思うんです。その中身が完璧であるとか、整合性が取れている/いないとかの議論を別にして。
生きることの意味ではなくて、生きるための自分なりの理由と言い換えた方がいいのかなあ・・・。「生きる意味なんて必要ない」と言い切れる人はいいですが*1、特に、意味や理由を見失っている人はそれを求めてしまうので必要なんだと思います。

あと、

子供には世界には自分を必要とするいろんな可能性があることを示してあげれば、それだけで多分生きる事に迷ったりはしないと思うんすよね。

ここですが、どうなんでしょう。可能性って確実じゃないじゃないですか。だから変な環境に居続けたら、やっぱり迷っちゃうんじゃないかなあと思います。じゃあ、なんだったら救いになるのかなあと昨夜考えていました。それは、やっぱりぬくもりなんじゃないかと思いました。ぬくもりを感じられる存在がいれば、それが道しるべになるのかなと。
「じゃあお前がなれ」とか言われると現実問題ちょっと厳しいわけですが。

*1:そう言ってる人も実は必要としていると思っていますが