果たしてヤツらは痛みを感じるか

ちょっとどこに書いてあったか思い出せないんですが、「なぜ刑罰に差があるのか」について書かれた文章をつい最近読んだんです。そこには、「何でもかんでも死刑にしてしまうと、罪を犯す側が躊躇しなくなる」という意味のことが書かれていました。どうせ死んじゃうんだから、めちゃくちゃやってしまえって思考になっちゃうと言うんですね。これは、「犯罪者は即死刑」という短絡思考が、解決にならないことのひとつの論拠になるのかなと思います。
で、これを読んだとき思い浮かんだのが、人格障害と判断されるような異常殺人事件の犯人たちです。(彼らの全てがどうせ死んじゃうんだからと考えていたとは思いませんけど)彼らに与える刑罰として果たして死刑は適当なのか?と考えました。
宅間の場合は責任能力なしとは判断されなかったようですが、立派に人格障害だと思います。で、その人格障害ですが、程度にもよるでしょうが、どちらかと言えば冷静な判断がしにくい精神状態であることが多いと認識しています。冷静な判断ができない精神状態だと、刑罰がその意味をなさない可能性は充分考えられると思うのです。
被害者と同じ痛みや苦しみを与えるというのもひとつの方法ですが、刑罰の背景には、犯罪者に「悔いる」ことを求める被害者側の気持ちがあると思います。痛みや苦しみを与えるのは、「こんな思いをすることになるなんて、ああ、なんて自分はバカだったんだろう」と思わせたいからやるんだと思います。そうでないと被害者側の気持ちは晴れないんじゃないでしょうか。
たとえば猟奇殺人犯とかが死刑になったときに、
「何をされようと痛くもかゆくもない。殺せてむしろせいせいしてるよ。こんなに充実できておれは幸せ者だ。」
なんて言われたら、被害者側ははらわたが煮えくりかえるでしょう。私なら犯人を活け作りにしても足りません。
ですから、単純に痛みや苦しみを与えるだけでは、必ずしも「悔いる」ことには繋がらないのではないかと思います。社会との断絶が顕著であればあるほど、社会からの制裁は不当だとしか思えないだろうと考えられるので、たぶん反省もしないでしょうし。

なので、やはり同じ痛みや苦しみを与えるを与える前に、それを被害者と同じように痛みや苦しみとして感じるようにさせてからでないと、意味がないと思うわけです。「健全な精神」という表現が的を得ているかはわかりませんけど。
その意味では、常に生と死を意識させつつ、社会とも関わりを持たせられるような何かが、刑罰の中には必要なのかなと思います。

なんか、angeさんの書き込みで思いのほか深く考えることができてしまいました。妥当かどうかはわかりませんが、自分なりに満足。angeさん、ありがとうございました。

※ ちょっと文章的にダメだった部分を修正。