○○をしてはいけない理由を考えること

反論ってわけじゃないんだけど、まあちょっと反応してみる・・・くらいの感じで書きます。

私は、「○○をしてはいけない理由」をまじめに考えることを、必ずしも馬鹿馬鹿しいとは思いません。特に疑問を持った当人にとって。

「まじめに考えること」じゃなくて、そうして導き出した自分なりの答えを、「自分なり〜」を超えて絶対的に正しいものと思い込んじゃったり、他人に押しつけたりすることが馬鹿馬鹿しいんじゃないでしょうかね。一方の見方に凝り固まってしまうと、視野狭窄に陥ってしまいますから。*1

いやね、こういう確たる解の得られないことをまじめに考えるってのは、哲学するってことだと思うわけですよ。それがたとえば知の遊戯になるんだとしても、一度は突き詰めて考えることをしないと、それが無駄なのかどうかわからないわけですよ。無駄だと気づいた人は、id:svnseedsさんも含めて、どっかでまじめに悩んだり考えたりしてると思います。まあ、中には直感的にわかる人もいますけど。*2

たとえば「人を殺してはいけない理由」という問題は、結局のところ「自分はどう考え、どう生きるか」という問題なわけです。それをどこまで社会通念とすり合わせられるかということは論じられても、実体のない社会通念とはどんなにがんばってもイコールになり得ないわけですよ。だからそれを目指したら徒労に終わるわけです。

でも、疑問を持って、悩んで考えて、そうやって自分で導き出した考えを他人にぶつけて、他人の考えを聞くことにも意味があると思うのです。そうやって他人の考えに触れていくことで、ものごとには複数の解があったり、逆に確たる解がなかったりすることがわかっていくからです。

だからまじめに考えてみるということは、当人にとってはとても意味があることだと思うし、それを持って議論することにも意味があると思うわけです。議論のための議論でなくね。

まあ、それも先に自分の考えあってのことですけどね。自分で考えずに他人に聞くことで簡単に解決しようとするのは、確かに意味のないことだと思います。*3

だからみんな、一生をかけて問い続けているのがわからんのですかね。 もし満足行く回答が得られない場合、それは大抵、問い方が間違ってるんですよ。

うんうん、これはまったく同感です。
っつーか、だいたい反論しているわけではないですし。大意で賛成なんですが、ちょっと表現が荒っぽいかなと思ったので反応してみました。

*1:あ、まじめに考えた風のただの短絡思考はもちろん無意味ですね。

*2:ゲームなら基本ルールに疑問を持っても無意味ですが、人間の性としてそういう疑問を持ってしまうわけで、それは無意味であろうとなかろうとごく自然な反応なんだと思います。

*3:ちょっと疑問に思ったからとりあえず他人に訊いてみるというのは、いわゆる教えて君なわけで、それに対する返答は「自分で考えな」でいいと思います。だいたい、他人の答えを聞いて納得できるくらいなら、そもそも大して疑問に思っていないわけですしね。